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佐柿が生んだ実業家・山本直成を知っていますか?
山本直成肖像写真 明治24年(1891) 丸木利陽撮影 山本直哉氏提供
プロローグ―幕末の佐柿と水戸天狗党
幕末に攘夷のため挙兵した水戸天狗党(水戸浪士)は、首領の武田耕雲斎らが敦賀で処刑されるという最後を迎えました。しかし、中には生き残った浪士たちもおり、彼らは小浜藩に預けられました。藩では彼らを「准藩士(じゅんはんし)」と呼んで藩士と同格に扱い、佐柿に屋敷を新築して敦賀から彼らを移しました。彼らは1年弱の間を佐柿で過ごし、明治元年(1868)に帰藩が許されると、京都で水戸藩の役人に渡されましたが、その時同行していた小浜藩士の一人に山本直成(なおしげ)という者がいました。
山本直成ゆかりの歴史スポット(1) 准藩士屋敷跡
山本直成とは?
山本直成は天保9年(1838)に下級藩士の子として佐柿に生まれ、文久元年(1861)に尊王の志士として上京すると小浜藩主・酒井家と強い信頼関係を築いていた岩倉具視に仕えます。岩倉が過激な尊王攘夷派から命を狙われた際、直成が身を以て岩倉を守ったことから、彼は岩倉の信頼を得るようになったといわれます。岩倉の政治活動を支えた彼の功績は後に認められ、明治30年(1897)に維新の功労者として従五位が授与されました。
彼は岩倉家の会計方を長く担当していましたが、明治9年に家令に任ぜられると、岩倉の命により実業家として民間経済の発展に尽くします。彼は十五銀行(三井住友銀行)や日本鉄道、日本郵船などの役員を務めたほか、三条実美や大隈重信、渋沢栄一など同時代の官僚や実業家との交流が数多くありました。
また、彼は若狭地方の鉄道敷設を計画した小浜鉄道株式会社の設立に出役立てるなど福井県でも活動したほか、また、彼は佐柿の日吉神社の拝殿建立や耳村(耳地区)の学校設立に出役立てるなど、故郷の社会公共事業にも力を注ぎました。
山本直成ゆかりの歴史スポット(2) 日吉神社
関連書類
『山本直成~佐柿が生んだ実業家~』 [PDFファイル/1.37MB]