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徳川家康ゆかりの地 美浜~どうした家康 ⁉ なぜ美浜に来た!~

記事ID:0009020 更新日:2023年1月23日更新 印刷ページ表示

元亀元年織田信長侵攻図元亀元年4月織田信長侵攻図

 

国吉城址遠望国吉城址遠望

 

1、「金ヶ崎の退き口」家康、美浜に来る⁉

軍記『国吉籠城記』諸本に登場する徳川家康軍記『国吉籠城記』諸本に登場する徳川家康

 

 元号が永禄(13年)から元亀(元年)に改まる1570年4月23日、越前朝倉氏征伐のため、織田信長率いる約3万の軍勢が、若狭国三方郡佐柿の国吉城に到着しました。この軍には、徳川家康も同行したと『国吉籠城記』諸本は伝えています。

 永禄13年4月20日、軍勢は京を出陣しました。琵琶湖西を北上し、22日には若狭国に入り、熊川に入りました。熊川では、若狭の諸将がうち揃って出迎えたといわれます。この時、徳川家康は熊川の得法寺を陣所としたと伝わり、近年まで腰掛けの松が残っていました。

 23日、熊川を発した織田勢は、北上して佐柿に至り、信長は国吉城に入りました。信長に従う諸将は、佐柿周辺の村々を陣所とし、丹羽長秀は木野、逸見駿河守は坂尻に布陣したと伝わります。

 25日、軍勢は敦賀に攻め入り、天筒山城を一日で攻め落としました。翌二十六日、金ヶ崎城を包囲すると、城主は戦わずに降伏開城しました。いよいよ木ノ芽峠に向かおうとした矢先、妹婿にして北近江の領主であった浅井長政が、織田勢の背後を襲おうと進軍中との報が入りました。信長は、少数の供廻りのみで若狭に戻り、朽木谷を越えて30日に京都に辿り着きました。各武将が率いる部隊も順次退却し、退却の最後尾を木下藤吉郎、池田勝正、明智光秀、そして家康が率いる各隊が担いました。

 『太閤記』では、木下隊のみが殿軍として奮闘したように記していますが、実態は複数の隊が担いました。また、織田方の最前線として国吉城が健在であったので、まずは敦賀から国吉城までの10数knを逃げてくればよかったのです。

 実は、家康が越前攻めに参加し、殿戦を担ったという記述は、江戸時代以降に記された『三河物語』や『東遷基業』など、家康の業績をまとめた二次史料(後世の史料)ばかりで、一次史料(同時代の史料)には出てきません。しかし、美浜町内に関わる伝承は意外に多く、「来なかった」とも言い切れないのです

 

2、家康の足跡 ~町内に残る史跡を辿る~

美浜町内の徳川家康ゆかりの地Map美浜町内の徳川家康ゆかりの地Map

 

(1) 徳川家康公ハ別所二陣ヲ取ラセ給フ

・「徳川家康卿は金山村の南、別所に陣を取らせ給ふ。」

 ・・・ 『若州三潟郡佐柿國吉城合戦記』(元禄5・1692年写)

・「徳川家康公ハ別所ニ陣取り…」

 ・・・ 『若州三方郡佐柿国義籠城記』(寛延4・1751年写)

 ・・・  『若州三方郡国吉籠城記』(天明7・1787年写)

 ・・・  『国吉籠城記 全』(嘉永7・1854年写)

・「徳川家康公ハ別所ヵ原に御陣ヲ…」 

 ・・・  『佐柿国吉篭城軍記 全』(天保13・1842年)

・「徳川家康卿ハ誨二隨別二陳所ヲ為取賜。」

 ・・・ 『若州国吉騒動記』(享和2・1802年写)

 

(2) 土井山砦跡

 耳平野西端の独立丘陵北部(標高69.4m)に位置する城跡で、北側麓を東西に丹後街道が通過し、丘陵の西側には『国吉籠城記』諸本に出てくる徳川家康が陣を取ったという別所の原野でした。

 大森宏氏は、金ヶ崎の退き口で若狭国まで退却した木下藤吉郎は国吉城に、徳川家康は土井山砦に一時立て籠もったという伝承があると『戦国の若狭』(1996)に記しています。

土井山砦跡要図土井山砦跡要図

 

(3) 家康、秀吉と国吉城で囲碁に興じる

「古老から聞いた話として、昔、国吉城の本丸に平らな大石があり、織田信長が国吉城を訪れた折、随行してきた徳川家康と木下藤吉郎が囲碁に興じた石だということです。」(地元佐柿出身者からの聞き取り)

 つい最近まで、本丸跡に登ってみてもそのような大石は見当たりませんでしたが、平成二十五~二十六年度の発掘調査で、北西虎口跡から平らかな大石が出土しました。この石は、粟屋氏の後に城主となった秀吉重臣の木村常陸介定光が城を改修した際に置いた「鏡石」が倒れたものとみられますが、後世、このような大石を城跡で見た人々によって、そのような話が広まったのかもしれません。

発掘調査で出土した国吉城本丸北西虎口跡発掘調査で出土した国吉城本丸北西虎口跡

 

北西虎口の鏡石北西虎口の鏡石

 

(4) 徳川軍、黒浜で朝倉の追軍と戦う

「(『東遷基業』よれば、)家康が金ヶ崎より軍を引いた時は、朝倉の追軍と黒浜(佐田の海岸を砂黒きため、この様に云う)に戦い、かねて先鋒をして戦い破れて丹生に逃げ、再び此の合戦に出て来た木下藤吉郎の一命をこの一戦に於いても救い、藤吉郎に厚く感謝せられたと云うのです。」  

「私も佐田田辺善作氏が佐田下田にて得たと云う赤錆の曲れるボロ小刀を得たが、平打、血みぞなし、そり弱く、つばの彫幼稚にして時代が合致するからこの合戦に用いたものと思っている。」

 ・・・  『山東村の歴史』1950 長者尚徳

佐田の黒浜(現・今浜)遠望佐田の黒浜(現・今浜)遠望

 

(5) 徳川家康陣跡(松原・久々子)

「縫路を取て帰陣すべしと、所の案内者を先に立て、木野を通り、松原と云処に宿陣ありける」

 ・・・ 『東遷基業』

・「史跡 徳川家康陣屋跡 松原」

 ・・・ 『目で見る美浜の文化財』1980 美浜町教育委員会

かつて西郷中学校にあった「徳川家康陣跡」の碑かつて西郷中学校にあった徳川家康陣跡碑

 

3、終わりに

 三方郡から撤退した徳川勢は、遠敷郡の針畑峠を越えて京へ帰ったと伝わります。この2ヶ月後、近江国の姉川で織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が激突します(姉川の合戦)。その後、遠江国浜松に居城を移し、甲斐の武田信玄と相対していきます。そのような波乱の時期に国吉城に足跡を残したとされます。

 国吉城は、2年前の『麒麟がくる』に登場した事で知名度も全国区になりました。今年の『どうする家康』に再び登場するかわかりませんが、今後も「ゆかりの地」としてPRしていきます。

 

関連書類

※ダウンロードします。(関連書類をご覧になるには)

「徳川家康ゆかりの地 美浜」資料(1) どうした家康⁉なぜ美浜に来た! [PDFファイル/1.01MB]

「徳川家康ゆかりの地 美浜」資料(2) 織田信長越前攻め(金ヶ崎の退き口)と徳川家康伝承 [PDFファイル/417KB]

 

関連リンク

町史跡 国吉城址

若狭国吉城歴史資料館

「徳川家康ゆかりの地 美浜」国吉城御城朱印発売中

 

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